歴代の松江藩主の中で、松江藩中興の祖とされるのが、大名茶人として名高い松平家7代藩主の松平治郷(1751~1818年)です。「不昧公」の名で今も多くの人に親しまれていますが、これは1806年の隠居後に剃髪して名乗った号「不昧」からきています。
藩主となった当時の松江藩は財政難でした。治郷の父・宗衍は財政改革を推し進めましたが、度重なる天災、幕府から命じられた社寺改修といった出費のため成果は上がらず、1767年に数え年17歳だった治郷に後を託して隠居しました。
治郷は家老に朝日丹波郷保を起用し、「御立派の改革」と呼ばれる財政再建策を進めさせました。藩内での借金を棒引きにするなどの債務整理や、藩の人員体制見直しといった歳出削減に大なたを振るいながら、薬用人参や櫨蝋の栽培をはじめとする産業振興策で収入増を図り、藩の財政を立て直したのです。
その一方で治郷は、十代のころから茶の湯や禅学を熱心に学びました。大名茶として知られる石州流を基本としながら、三斎流など他の流派にも接して自らの茶道観を確立しました。これが不昧流として今も伝わっています。著書「贅言」は、茶の湯への執心を諌めた家老朝日丹波への反論で、形式や道具にこだわる当時の町人たちの茶の湯を批判し、わびの精神を説きました。藩財政立て直しの後は、当時の大名家などから次々と巷に散逸していく茶道具の収集に力を注ぎました。その収集品はのちに「雲州名物」と呼ばれ、茶の湯や美術の愛好家から高い評価を受けています。茶の湯の歴史における治郷の大きな功績は、それまで単に「名物」と呼ばれていた茶道具の名器をさらに細かく「宝物」「大名物」「中興名物」などと分類し、18巻にも及ぶ著書「古今名物類聚」にまとめたことです。また、松江藩内で美術工芸の振興も図り、陶芸や漆工、木工の世界で多くの名工を育てました。
随所に不昧の美意識
松江市北堀町278 tel.0852-21-9863
明々庵は、大名茶人として知られる松平不昧の指示で、松江城下の有澤邸に建てられたのが始まり。不昧自身も何度か茶席に臨んだという茶室は、茅葺きの入母屋造りで、随所に不昧の美意識が感じられる。明治維新後には、松平家が一時、引き取ったが、不昧没後150年記念事業として、1966(昭和41)年に現在地の松江市北堀町の赤山に移築された。
2012(平成24)年からは、山陰中央新報社が指定管理者として明々庵の管理を行っており、7人のスタッフが案内や呈茶を行っている。
修復された三斎流茶室。
松江市北田町27 tel.0852-21-9863
堀川沿いにある天台宗・普門院は、堀尾吉晴が松江城の祈願所として現在の松江市寺町に建立。堀尾、京極両氏の後を受けて、松平氏の時代になった1676(延宝4)年に松江が大火に見舞われ、普門院も焼失してしまうが、三代綱近が現在の松江市北田町に再建し、現在に至っている。
普門院にある三斎流茶室「観月庵」は、老朽化と2000(平成12)年の鳥取西部地震の影響で、倒壊寸前だったが、市民が募金活動を展開した結果、修復が実現し、2010(平成22)年から一般公開が再開された。
藩主松平家の菩堤寺。
松江市外中原町179 tel.0852-21-9863
松江藩の藩主を務めた松平家の菩提寺である月照寺。初代・直政が1664(寛文4)年に生母・月照院の霊牌を安置するために建立したのが始まりだ。約1万平方メートルの広大な境内の中には、松江を愛した明治の文豪・小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の随筆にも登場し、夜になると動き出すという伝説も残す巨大な亀の石像や7代藩主松平不昧(治郷)にゆかりのある茶室大円庵などがある。
別名「アジサイ寺」とも呼ばれる同寺には約3万本のアジサイが植えられており、6~7月には色鮮やかなアジサイやスイレン目当ての観光客でにぎわう。
山荘に建てられた国重文茶室。
※菅田庵は現在、一般公開されていないため写真は掲載しません
菅田庵は、1792(寛政4)年に松平不昧の指示により、松江藩の家老であった有澤家の山荘内に建設された茶室。茅葺の入母屋造りで、内部は一畳台目中板入り。 菅田庵の隣接地には、不昧の弟である為楽庵雪川好みの茶室「向月亭(こうげつてい)」が立つ。山荘内の菅田庵、向月亭と御風呂屋(おふろや)は国の重要文化財の指定を受けている。